ラオスの織物、夫婦で再興

忘れかけていた自然染色「ラオスからの贈り物」 商社マンだった牧雄彦(たけひこ、65)は
定年退職したその日、サラリーマン時代に決めていた。
輸入繊維商品の企画コンサルタントを始めるため起業した。

染織作家の妻・喜代子(61)は工房を主宰していた。
そんな2人が自由な時間を満喫する旅で、ラオスの伝統織物に合う。

「日本人の感性に訴えるものがある」。

伝統を生かして新しい布を作れるよう、地元に産業を興そう。そう考えた2人は今、
日本とラオスを往復する毎日だ。
インドシナ半島の内陸にあり、資源は木材と、水力発電による電力くらい。

ラオス南部では、古くから木綿や藍(あい)を育て、糸を紡ぎ、染め、機を織る
伝統的な織物づくりが行われる。 市場に出すためではない。家族の衣服にするためだ。
日本の絣(かすり)にも似た布は、それぞれの家に伝わる模様が織られている。

そんなラオスの織物に二人が出会ったのは偶然。 未知なる布を求めて
タイやインドネシアを旅していた時、「おもしろい布に何度か出会った」。
聞けば十中八、九が「ラオスの布だった」。

「ラオスの布」を求めて二人が初めて現地を訪問したのは、雄彦が退職した翌年の98年。
各地の織物を見た後で、縫製工場を経営するラオス人の夫妻を紹介された。
「タイ企業の下請けをしているが、もうからない。 直接日本に輸出したい」
しかし作っているのは、探していた布とはほど遠い、ナイロン製上着などだった。

【 雄彦 】 : 「工場を見たらミシンも古いし技術も遅れている。対日輸出は困難だと思った」
【 喜代子 】 : 「村の女性が作っている手織り布の方が日本で可能性があった」

喜代子は三十年以上の経歴を持つ自然染めの染織作家。雄彦は商品企画や取引のプロだ。
指導に来て欲しいと求められたが、ボランティアで日本と往復する経済的余裕はない。
悩んだ末、通産省(当時)の支援プログラムの活用を思い立った。 翌1999年1月、
専門家として政府機関から派遣され再びラオスへ。
まず力を注いだのが「安かろう悪かろう」というイメージの払しょく。
天然素材と手作りにこだわり、原料の綿花から染料まで地元で採れた物だけを使うなど、
ラオスでしか作れない布にすることにした。

「識字率が低く、技術を継承する文献がなかったのには困った」紡績工場の一角に洗い場を作り、
鍋や七輪を買い入れて簡素な工房が完成。
若いころに藍染や手織の経験をした年寄りから、染色の材料になる藍や樹皮、
木の実の種類やその使い方まで根気強く聞き取った。

そして材料を集めて試し染め。最終的に二十色以上の色見本を作ることができた。
二ヵ月後、大量の糸と生地を手に日本に帰国、雄彦は商社時代に知り合った

生地問屋やアパレルのバイヤーらを回った。注文が無ければ、方向を変えなければならない。

幸い、知り合いのアパレルメーカーから服地として注文が入った。
五月、初めてのオーダーを受けて作業を開始。 発注は手ぬぐいと服地のデザイン。
しかし工房の女性たちにとってデザインは自分の頭で思い描くもの。
紙に書かれた模様を織るという経験がない。
「難しい事はしたくない」とかたくなな女性たちに、喜代子は手本を見せ、
様々な模様や色を織る楽しさを教えた。

【 雄彦 】 : 「ただメートルという単位が理解できず、生産管理という概念もなかった」

予期もしない事態も襲った。 二人の帰国中、記録的な低温で染料の藍が全滅してしまった。
日本のメーカーに最初の品を届けられたのは、予定より十ヶ月遅い2000年十月だった。
工房では当初、娘たちに泊り込みで機織りに来てもらっていた。
しかし休日にいったん帰ると「家族と離れたくない」と休みが明けても仕事にこない。
そこで自宅で作業してもらう事にした。最初に織り始めて3年。 糸紡ぎには100人、
機織りに100人、木綿栽培まで含めると500人以上がかかわる 地域の産業になりつつあった。

【 雄彦 】 : 「手織りなんていう非効率な物は何もしなければいずれ消えてなくなってしまう」

その後、日本の中堅アパレル社など約10社と契約。 道筋が付き始めた。
牧たちも日本で縫製した洋服を自分たちのブランドで発売。
しかし、牧たちは事業を無理に拡大するつもりはない。
家族と離れて働くことを嫌がった娘たちがいるように、ラオスにはラオスの時間が流れている
と分かるからだ。

【 雄彦 】 : 「日本がとうの昔になくした大事なものが残っている。それは壊したくない」

それは壊したくない天然素材しか用いないのも、商品の差別化だけが目的ではない。
高度成長を経験した牧らは、下水施設もないラオスで、化学染料などを含む排液を畑や川に
垂れ流したくはなかった。

【 喜代子 】 : 「技術も守り伝えなければ。そのためには指導者を養成する場が必要だと思う」

今、ギャラリーなども併設したトレーニングセンターを作る構想が 実現に向けて動いている。
アジアの織物には商社マンのころから強い関心を抱いていた雄彦。しかし量が少なすぎて、
商社では扱えなかった。

【 雄彦 】 : 「会社を辞めてからやろうと決めていた」

牧らにはラオスでの実績から、ミャンマーでの織物の企画生産など、
さまざまな依頼がはいるようになった。
インド製品の輸入、仲介も始めた。商社の同期は、ほとんどが再就職先も見つからず、
ぶらぶら過ごす毎日。
それを横目に雄彦は「現役のころより忙しくなった」 と苦笑する。
喜代子もラオスにかかわりだしてから、自分の工房を開ける時間がないが
「もう自分で織らないでもいいかな、と思い始めた」。

雄彦と喜代子は京都市立美術大学デザイン専攻(当時)の先輩と後輩だったが、
仕事では別の道を歩んできた。
しかし「縁あって」、雄彦の定年退職を機に2人並んで 同じ道を歩く事になった。
日本では娘に経理を、ネット通販などを手がける娘婿に販売開拓を託すなど、
拡大をめざし始めた。 娘夫婦をラオスの関係者とも引き合わせるなど、次の世代づくりにも力を注ぐ。

「現地の人たちが、伝統織物を売ったお金で、安いナイロンの服を買うのを見ると
複雑な思いがする」と喜代子は苦笑するが、体力が続く限り、 夫婦でラオスに
かかわり続けようと心に決めている。
( 日経流通新聞 / 羽田 洋子 )