サワンナケートからvol_10【最終回】

その後

日本に持ち帰った染色糸と織物のサンプルは、色々なところで良い反応を得ました。すぐにオリジナル商品を提案してきた企業の為に、さらに見本が必要になり再びサバナゲートへ。織りが決定するとつぎは試染めを、と毎月のように出かけることになりました。サバナケートでは日常から遊離しない仕事の在りようを考え、織物も彼らの技術はそのまま生かすようにしましたが、感覚的には今までとは違う人々だし、何をするのも彼等にとって初めてでは無いようでいて、初めてのことばかりです。とてもFAXや電話で意志が通じ合える段階ではありません。本番生産にこぎつけた九月から又一ヶ月半滞在して見守り、順調に進みそうなのを確かめて、帰国しました。でも間もなく十二月になるとおかしなFAXが届くようになりました。「もしも納期が遅れたら、代金は支払ってもらえないのだろうか?」とか「もし、発注した数に足りなかったら、支払ってもらえないのだろうか?」と。変だ!何かトラブッている!?私たちは年末ぎりぎりになって急遽飛ぶことにしました。秋、私たちが帰国して間も無く、ベトナム国境の山に降った豪雨がセバヒヤンをなだれ下り、村が洪水に襲われたのです。川辺に植えた藍はすっかり流されてしまい、その後すぐに蒔いた種が芽生えた頃、又洪水が来て流され、今度は少し陸寄りに植え、その藍は十二月末で5cmです。藍不足に加えて、少しストックしてある泥藍で建てている藍液は全く元気がありません。異常寒波です。私達はキルティングのジャケットを着込み、ズボンを二枚重ねてはいていても寒くて震える程冷えます。為す術もなく一旦日本に戻ったものの何とか出来ないものか、とにかく一緒に考えなくてはと2002年の正月もそこそこにサバナゲートへ。一月になっても寒波は納まらず、ソンバッティはこの仕事をほとんど投げかけていました。(‘99夏、ソンカンは技術を全てカンペンに指導して、アメリカに渡ってしまって居ないのです。)そんなソンバッティを、仕事を受けたからにはなんとかやり遂げるよう努力しなければならない、とかやる気を出さなければ進展しない、とか一生懸命説得に努めました。なんとか通じたようで、ソンバッティが立ち直り知恵を絞り始めたら、彼女の持つ人脈で何とかなるもの、洪水にあわなかった村から藍が届き始めました。藍壷の置き場所を吹きっさらしのコンクリートの布から土の上に移動しました。ブントンさんは「ラオラオの発酵場所と同じ条件にすれば良い。」と藍壷の為の小屋を建て、カンペンは古い藍液を思いきって処分して新しく建て直し、再生が始まりました。二月半ばになると寒さは和らぎ、村々から届く藍も増えました。それからは藍を育てる村、糸を紡ぐ村、とどんどんサバナケート県の各地に波及していくようになりました。三月になり、東京のバイヤーが撮影の為に工房に来られた時には、うそのように仕事がはかどっていました。六月に始めての輸出が実現し、各地の直営店で開かれた展示会では驚くほどの評判になったそうです。2003年にバンコクの東北、ムクダハンからサバナケートに橋が掛かります。その時にサバナケートがタイ、ベトナム間のただの通過地点になってしまうかどうか、今サバナケートに熱い視線が注がれています。否応なしに大きな変化に見舞われるでしょう。伝統に共にたがいに誠意を持って努力していかねば、と考えています。工房の名前も出来ました。「ラハシン(芸の探索)」です。ラハシンの布が日本にいくつかの会社の、それぞれのブランド名で皆様の目にふれ、お使いいただける日はもう間もないことと思います。まだ掘り起こさなければならない色、織り組織などがあり、ラハシンとの関わりはこれからも続きますが、一旦ここで報告を終えます。拙い文章におつきあいいただき、ありがとうございました。

牧 喜代子 1999年~2000年

 

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